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宮沢賢治の童話的作品『なめとこ山の熊』は、賢治の作品の中でも比較的よく知られたものである。それは単独の作品で言えば『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』などに次いでよく読まれているものであり、また童話集『注文の多い料理店』の中の諸編と並ぶくらいよく読まれているものであるように見える。『なめとこ山の熊』は賢治の仕事を代表する作品の一つとみなされるべきであろう。しかしながら、この作品には、賢治の他の作品にはまったく見られないような独特な性格がある。それは何よりも、この作品が猟師を主人公にしていることから生じているものである。猟師を主人公にすることによって、賢治は殺生の問題に正面から取り組んだのである。
しかしながら、猟師といっても、賢治がここで描いたのは、「注文の多い料理店」に登場するような、都会からやってきて、スポーツとして狩猟を楽しんでゆく、いわゆるスポーツ・ハンターとしての猟師ではない。『なめとこ山の熊』の主人公である猟師、淵沢小十郎は、山の動物の殺生をもって生活の糧を得てゆく職業的な猟師であり、そういう者として、この列島の、主として東北地方の山間部を中心に活動を展開していた「マタギ」と呼ばれる猟師たちに直接に連なる存在とみなしうる人物である。近年、マタギ研究の分野で目覚ましい成果をあげている田口洋美氏は、最近の論文の中で、この作品の主人公のモデルを、状況証拠ながら、当時花巻周辺で活動していたただ一人の本格的な猟師であった、松橋和三郎であろうとほぼ特定している(1)。賢治と松橋氏とのあいだにどの程度の接触があったにせよ、あるいはなかったにせよ、『なめとこ山の熊』を描く賢治の頭の中に、この松橋氏から広がって行くマタギのイメージが存在していたことは間違いないことであろう。賢治が、スポーツ・ハンターとしての猟師たちを嫌悪していたことは「注文の多い料理店」から明らかであるが、彼は、『なめとこ山の熊』という作品において、殺生をおこなう生という本質的な問題に立ち向かうのである。それは殺生をその生存の必須の要件として行なう猟師が、どのようにしてみずからの生を肯定しうるのかという問題であり、またいかにして自分がみずからの殺す者たちによって肯定されうるかという問題である。それについて賢治は、現実のマタギたちの深い考えとも通底するような考えを語っているのである(2)。
さらに、この作品のもう一つの特徴は、なめとこ山の熊たちがもう一方の主人公になっているということである。熊もまたみずからの思いをもち、みずからの思いによって行動し、そして自分たちの仲間とも思う小十郎にはみずからの思いを語り伝えるのである。物語のこのような設定は、動物と人とのあいだに通底するもののある一つの空間を設定していることになる。それはそれ自体がすでに近代小説の枠を逸脱しており、そのためこの作品は「童話」と呼ばれることになるのであるが、本稿ではこのような語りの構造の問題についてはあまり触れないでおくことにしよう。そうした語りの構造以上に重要なのは、この作品が熊の思いを語ることによって、熊とひととの関りの文化の中に、日付と地域の一定の限定を受けつつ、然るべき一つの位置をもつものになっているということである。つまり、北方ユーラシアから北アメリカにかけての広大な地域で、人々は熊祭(熊の霊送りの儀礼)を行ない、熊に対するみずからの特別の思いを形にしてきたが、宮沢賢治のこの作品もまた、人々の熊という動物に対する特別の思いを形にしたものとみなしうるのである。熊祭が行なわれるそうした広大な地域のすべてにおいて、熊はきわめて強力な生きものであった。そして熊は、アイヌ社会やニブヒ社会におけるように、仔熊から飼い育てられることはあっても、役獣として家畜化されることの決してない生きものだったのである。その点で、熊は、地域的に重なってはいても、乗用のために、あるいは車や橇を引かせるために家畜化されるトナカイとはまったく違ったタイプの生きものであった。熊はその強力さのゆえに、家畜化されることはなく、むしろ神的な性格を多分に備えた生きものとみなされてきたのである。そして熊は、わたしの見るところでは、そのきわめて強い母子の結びつきによって、神々の世界の、たいへん人間的な性格を人々に推察させてきたのである。熊の霊送りの祭や儀礼においてみられる、熊に対する特別な、畏敬にみちた思いにつながるものを、あるいはその源にあると思われる心情を、われわれは宮沢賢治の『なめとこ山の熊』の中に見出すことができるであろう。以下でわたしは、そのような思いの形を明確に取り出すことを試みてみよう。
先にも触れたことであるが、宮沢賢治の『なめとこ山の熊』は、狩猟という営為から必然的に生まれる、狩る者と狩られる者とのかかわりを描いている。そしてそのかかわりは、互いにとっていのちのやりとりとなる関係であるゆえに、この作品はその両者の思考と心情のきわめて深いところにある問題を描くことになっているのである。一方でこの作品は猟師小十郎に、自分はなぜ猟師として生きてゆくのかということを自問させている。そしてまた他方では、小十郎に狩られる山の熊たちが、自分のいのちを奪おうと狙ってくる小十郎をどのように受けとめているかということを描いている。その答えは、ともに山によって生きるものとして、ということになるであろうが、それについては後に考察を進めることにしよう。ともあれこの作品の重要な効果の一つは、猟師というものについてのあるはっきりした像を与えてくれることである。里や都会に住む人々は、現実の猟師と親しく接する機会をほとんどもたず、猟師について、鉄砲をもって山の獣たちと渡り合う粗雑で獰猛な人間という印象をもっていることが多い。しかし、賢治がここで描く猟師は、そのような人物ではまったくない。賢治はここで猟師を、誰よりも山の動物たちの心情を理解する人間として描いているのである。そしてこのことは間違いなく現実の猟師の一面であるのである。
この話の主人公である猟師、淵沢小十郎は、自分で「もう熊のことばだってわかるやうな」気がすると思うほど、熊の生活や心情について精通している(3)。そうして小十郎は、ある年の春はやいころ、「丁度人が額に手をあてて遠くを眺めるといった風に淡い六日の月光の中を向ふの谷をしげしげ見つめてゐる」母と子の二疋の熊を見かけるのである。そうして、向うの谷のひとところだけ雪のように白くなっているところがあるのを見て、あれは何なのだろうと問いを交わしている親子の熊の会話が聞こえてくるのである。これはあるところ小十郎の思いなしかもしれないものではあるが、山の中に生じた小さな変異に母子の熊が気づき、あれは何だろうと母子で共に考えながら、「ひきざくらの花」が咲いたのだ、という出来事を見いだして行くプロセスは、そのようなことは熊の親が子にものごとを教えて行く過程に、実際にあったとしても不思議ではないと感じさせるようなことである。熊の親子の関係の中に、〈教える〉という過程が含まれている以上、対話的なやりとりは実際必ず存在しているであろう。そして、実際、熊のそのようなやりとりを理解することは、まさに練達した猟師にのみ叶うことであろう。賢治は、熟達した猟師の能力のある部分の感性を、きわめてすみやかにわがものにしていたのである(4)。
ところで、この『なめとこ山の熊』の話は、山の上の平らなところに熊たちがたくさん集まり、環をなして雪にひれふしていて、そのいちばん高いところに小十郎の死骸が半分座ったようになって置かれているという情景で終わる。この情景を熊による小十郎の霊のイオマンテであるとする解釈が存在する。この解釈は、今日ではすでに通説となっているように見えるが、この情景をそのように読み解いたのは、わたしが知る限り梅原猛氏が最初である(5)。アイヌ民族のイオマンテとして知られている熊の霊送りと同じ意味のいとなみを、熊たちが小十郎に対して行なっている、というのである。この解釈は大変な卓見であり、この情景を立場を転換した霊送りとして読む解釈は、「なめとこ山あたりの熊は小十郎をすきなのだ」という熊たちの心情をとてもよく説明すると同時に、イオマンテの思想の忘れられていた深さと広がりをわれわれに思い出させるものであった。しかしわたしはここで、氏のイオマンテ説による読解をなぞるのではなく、むしろこの作品の、アイヌの人々のイオマンテとは異なる側面を丁寧に取り出してみるようにしたい。むしろそうすることによって、ひとと熊との関りについて宮沢賢治が懐いていた多少とも東北的な思いと、アイヌの人々のそれを、共に理解する場所が開かれると思われるのである(6)。
まずはじめに注目したいのは、猟師小十郎が、みずからの仕事を、罪のある仕事と考えている、という点である。小十郎は鉄砲で熊を倒した後こう言う。「熊。おれはてまへを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめへも射たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめへも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ」と。小十郎はほんとうは他の「罪のない仕事」をしたいと考えていたのである。そして、その罪のある仕事をしなければならない理由を、仏教的な「因果」として説明し、納得しているのである。
しかしながら、この作品には、狩猟を、他に仕方がなく営まれている罪ある仕事として見る見方を超える要素が認められる。それは「おれも死ぬのはもうかまはないやうなもんだけれど……」という熊の言葉に表わされている事柄である。その文脈をたどれば、この問題のやりとりは、ある時小十郎に狙われた熊が、「おまへは何がほしくておれを殺すんだ」という問いを小十郎に投げ返すことからはじまる。この問いは、差し当たって、自分の命が何と交換されることになるのか、ということをきく問いである。小十郎の答えは「おれはお前の毛皮と、胆のほかにはなんいもいらない」ということであった。そしてそれらが非常に高価なものとして売れるわけでもない、ということも小十郎は付け加える。自分の命は、その代償を交換価値としてみるならば、とても安いものなのであるということを熊は知ることになるのである。そして熊は、多分同時に、そのようなあまり高価でもないものでも獲り集めないでは、小十郎の家族の生活が成り行かないということも理解するのである。そして小十郎の方でも、熊からストレートに殺す理由をきかれて、「けれどもお前に今ごろそんなことを云はれるともうおれなどは何か栗かしだのみでも食ってゐてそれで死ぬならおれも死んでもいゝやうな気がするよ」と答えるのである。小十郎の頭にはここでも殺生=罪という考えがあり、彼はそういう殺生をほんとうは嫌っているのである。だから、殺生をするぐらいなら、「栗かしだのみでも食って」いたい。「それで死ぬならおれも死んでもいゝやうな気がする」という思いを漏らすのである。ちなみに、ここで「しだのみ」と言われているのは、「羊歯植物の実」というようなものではなく、飛騨から東北にかけての山間部で、通例「しだみ」とか「ひだみ」とかよばれる、煮沸処理して食用にされるミズナラその他のどんぐりの類のことである。
しかしここで漏らされている思いは、小十郎の個人としての思いであり、実際には、母を養い、孫たちを養っている家族の長としての立場からすれば、彼は容易に死ぬわけには行かない。やはり猟師として、熊の胆や毛皮を売って、生活を営んでゆく必要があるのである。しかしそれにもかかわらず、相手の生命を奪う究極の理由を尋ねられれば、それは、奪う必要はなく、そのためにみずから死ぬことになるのならばそれでもよい、という答えが彼の真実の答えになるのである。その場合、家族の生死は、彼ら自身の運命にゆだねられることになるのであろう。
熊が、先ほど引用した「おれも死ぬのはもうかまわないやうなもんだけれど……」ということを言うのは、この「不必要」という言葉を聞いてのことである。究極において、小十郎は熊に、「お前を殺す必要はないのだ」と言った。この小十郎の思いは、交換のエコノミーの円環の外にある。胆や毛皮は市場における交換のエコノミーの環の中に入っている。しかし熊の命はその中に入らない。そして通常は、何の価値もないものとして、胆や毛皮に不必要に従属するものとして扱われる。そこからすれば、熊は、薬用になる胆を取るために、牧場のようなところで飼育して、時々胆を切除して反復利用したらよいという考えも生れるであろう(7)。しかしこのやり方は、不必要な熊の命を奪うことを避けさせはするが、また同時に、それによって、熊の生存の意味そのものを人間にとっての有益性に従属させることになるのである。それは熊の生存を侮辱する行為だ、と熊も小十郎も言うことであろう。小十郎が熊に向かって、「お前を殺す必要はないのだ」と言うとき、小十郎は、自分の生存をお前の生存より優先する理由は何もないのだ、と言っているのである。このとき、熊も小十郎も、理由のない行為を行なう、という大変微妙な問題のただ中に立っているのである。
ここにおいて熊は、小十郎に、ひとつの決定的な贈与をすることを決める。彼に、みずからの死を与えるのである。あるいは同じことだが、みずからの生を与えるのである。これは菩薩行であろうか。サッタ太子の「捨身飼虎」の行為を菩薩行の典型とみなすならば、この熊の行為は、まさに菩薩行であることになるであろう。ここでこの熊は、小十郎の家族に対して、「捨身飼人」を行なっているのである。
熊がみずからの生を小十郎に与えるのは、何よりも与える理由がないからであり、無償であるからである。この贈与によって、この熊の行為はいのちのやりとりを超え、あるいは「決闘の正義」と言いうるような場所をも超えている。つまり、いのちのやりとりになる対決に公正さがあり、それゆえそこには正義があるとみなされる場合が存在するが、ここにおける熊の行為は、そのような対決ともまた異なったものなのである(8)。熊は、そのような対決さえ避けて、みずからを贈与したのである。
この熊の贈与には、しかし一定の期間の保留がつく。熊は「少しし残した仕事もあるしたゞ二年だけ待ってくれ」と小十郎に頼む。この二年という期間を、野本寛一氏は「牝の子熊との子別れの時間と一致する」と大変的確に指摘している(9)。わたしが何人かの猟師から見聞したことをまとめると、雌のツキノワ熊はおおよそ五、六月に交尾をして妊娠する。そして妊娠した雌熊は次の年、冬眠中の一月か二月に、普通オス、メスひとつづつ子を生む。それから一年間母子でいわゆる三つ熊として生活をし、そして次の冬、普通は二頭の子とともに同じ穴の中で冬眠する。そしてその間に子は二年子(=二歳熊)となり、その後その年の六月か七月のころ、「イチゴ別れ」とよばれる別れをする。それは、仔熊たちが一心にイチゴを食べているときに、こっそり母熊が去ってゆくことからそう呼ばれるのだという。(あるいはこの時母熊に捨てられるのはメスの仔だけで、母熊はもう一年オスの仔熊と過ごし、翌年の五、六月にそのオスと交尾して別れるのだと言う猟師も多い。しかしその信憑性に関しては、今のところ、わたしはそれに多少の保留をつけておくことにしたい。)
宮沢賢治の話の中のこの熊が、雌熊であったのか雄熊であったのか、それについては作品の中ではまったく説明がなされていない。しかし、小十郎がこの熊に出合うのが「ある年の夏」とされていることに注目するならば、この熊が雌熊で、このとき妊娠していたのだとすれば、この熊の「し残した仕事」のための二年間という期間は、腹の中の子らが生まれ、育ち、そして親離れをする「イチゴ別れ」までの二年間のことだとして大変よく説明がつくであろう。そしてこの熊が「捨身飼人」をしようとするのは、小十郎その人のことを思ってというよりは、むしろ小十郎の家族のことを思ってのことであるように見えるのだが、そこにもまた母性的な考え方というべきものがあるように見えるのである。以後わたしはこの熊を、腹に子を宿した雌熊だったと考えて読解を進めてゆきたい(10)。
それからちょうど二年後の日、風の烈しく吹く朝のこと、小十郎が外へ出てみると、家の垣根の下に、そのときの熊が口から血を吐いて倒れていた。それを見て、小十郎は「思はず拝むやうにした。」このとき小十郎はなぜ拝むようにしたのだろうか? 彼はそのとき、何に対して拝んだのであろうか? ――この時、ここに、現われていたもの、それは確かに拝むべきものであったであろう。思わずにひざまずき、手を合わせ、そして拝するべき何ものかがそこには顕現していたのであろう。それは〈山の神〉と名づけてよいものなのではないだろうか。熊は小十郎にみずからの死を与えた。この贈与に対して、ひとは相当する代価を払うことはまったくできないであろう。小十郎はこのときこの恩恵において、一方的に受贈者になる他ないのである。拝むとは、みずからが恩恵の一方的な受贈者となっていることに、気づくことなく感謝する行為であると言うことができるであろう。そしてこのような純粋な贈与には、常にある神聖さがあるのである。
しかしながら、この熊と小十郎の関係をより広くながめてみるならば、そこにおいても交換に類する要素が認められないわけではない。それは、小十郎が二年間待ったというそのことである。この二年間が、その熊にとって、みずからの子に生を与え、そして養育する時間であったとすれば、待つことによって小十郎は、その熊に、その分身と言うべきみずからの子の生を得るための機会を与えていたのである。ここには循環の契機が認められる。小十郎は熊の生命の循環を助けた。つまりその熊自身の生命は奪ったにしても、その結果、そのものの生命(遺伝情報)の循環的移行を促し、そしてその循環の過程を保護したことになるのである。小十郎自身気づかなかったにしても、これもまたひとつの贈与、循環的、移行的な仕方で生を与えることであったのである。ジャック・デリダは、引き延ばされた交換ではない純粋な贈与というものは、受贈者にも寄贈者にもそれと気づかれないものでなければならない、ということを強調した(11)。この小十郎と熊との関係においては、互いにそれと気づかれない生(あるいは死)の純粋な贈与が互いに行なわれており、その贈与が行なわれるところに〈山の神〉が顕現している。そして、〈山の神〉が顕現するのは生あるいは死の贈与においてであり、そこには生の循環を肯定し、それを護る深い配慮が存在しているのではないであろうか。
しかしながら、実際の狩猟の経験においては、狩られる固体の生命の循環的移行への配慮がなされるのは比較的限られた場合だけである。たとえば「三つ熊を獲ってはならない」という掟は、本土の熊猟をする地域に比較的広く認められ、そしてその禁を犯したための祟りの話も伝承されている(12)。しかしこの掟の適用対象となるのは、おおむね母熊が仔熊を二つ連れて歩いているのを発見されたときであり、最も本来的な熊猟である冬眠中の穴籠りしている熊を狩る穴熊猟においては、この掟は普通適用外になるのである。冬眠中の三つ熊は、発見された場合、普通、三つとも仕留められる。そして猟師は、そのことにしばしば心的な負担を感ずる。しかし現実的に考えるなら、仔熊が初年子の場合、母熊なしで仔熊が生きられる可能性はほとんどないのである。餓死するかキツネなどに捕食されることが、通例その仔熊を待ち受けている運命である。そして仔熊が二年子以上の場合には、その仔熊と猟師との対決がそれ自体相当に緊張をはらんだ関係になるのである(13)。
このように実際の狩猟行動に入った場合には、猟師は普通その相手の獲物の生命の循環的移行を護るように配慮する余裕を持たないのである。そして実際にそのような配慮をなしえないために猟師の心的な負担はそれだけ大きくなるように見える。そして、〈山の神〉という存在が呼びかけられるのはまさにそのためである、とわたしには見えるのである。つまり、「山の獲物は山の神の贈与である」とする考えであり、猟師はこのような考えによってその心的負担を大いに軽減しうるのである(14)。
そして『なめとこ山の熊』の最後のシーンである。その最後のシーンで、ある熊との対決に破れて死んだ猟師小十郎を、熊たちが、いつまでも動かずに取り囲んでいる。それはまるで熊たちが彼の魂の供養をしているかのようである。本土のツキノワ熊は通常大型動物を食べないと言われているが、なめとこ山の熊たちもまた、小十郎の死体を食べるわけではない(15)。小十郎自身も彼の命を熊に、食べ物として捧げたようとしたわけではない。小十郎は、この日なめとこ山で死ぬことを望んでいたようにみえるが、しかし彼が望んだのはどのような死なのだろうか。梅原猛氏が言うように、彼は「熊のために自らを犠牲にした」のであろうか(16)。
この最後の山行きの日、小十郎の振舞いは朝から普段と異なっていた。この日小十郎は、「婆さま、おれも年老ったでばな、今朝まづ生れで始めで水へ入るの嫌んたよな気するぢゃ」と老いた母に語る。この水は、山を渉猟する際に渡る川の水ではなく、山入りの清めのための水垢離取りの水であろう。小十郎はこの日、水垢離を取らなかったのかもしれない。あるいは、取ったにしても、そこには少しの嫌がる気持ちがあったとみなければならない。ここにもまた〈山の神〉が潜在しており、きちんと水垢離を取れば、そのことが山に入って〈山の神〉から山の獲物を与えられる資格を得ることになるのであろう。それゆえ逆にそれを嫌がるということは、山での殺生をみずから嫌がるということを意味しているであろう。それはただちに猟師としての生の終わりを意味するであろうし、小十郎に猟師として以外に生き方がないからには、それはみずからの生の終わりを意味するのである。
この言葉を聞いて、「九十になる小十郎の母はその見えないやうな眼をあげてちょっと小十郎を見て何か笑ふか泣くかするやうな顔つきをした」という。母は小十郎の言葉の意味を完全に理解したのである。母の「笑うような顔つき」は、わが子が殺生の生を終えることへの喜びであろう。そしてその「泣くような顔つき」は、わが子との死別の悲しみであろう。そして孫たちへの最後の別れをして、小十郎は山に入って行く。
小十郎は、生きるために、そして家族を育てるために、〈山の神〉に帰依していた。しかし死を決めたとき、彼はどのような死を願ったのだろうか。賢治の描く小十郎の死は、小十郎が願ったとおりの死の形であると解釈されねばならない。
そこのところの賢治の記述を見てみよう。賢治はこう記す。
熊たちが集まってきて、そしてじっと雪にひれふして動かないさまは、まずは熊たちによる通夜のように見える。死別に際して、いわば喪の儀式として、親しかった者とのなごりを惜しんでいるのである。それは梅原猛氏が説くように、一種の「霊の供養」と言えるであろう。しかしそれが更に「小十郎の霊を天に送るための厳粛な宗教的儀式をしている」と言えるのかどうかについてはわたしは保留をせざるをえない。あるいは「厳粛な宗教的儀式」とはみなしうるかもしれない。しかしこれが「霊を天に送る宗教的儀式」としての「イオマンテ」と言えるかどうかを問うならば、ここにあるのはイオマンテとは違った本質のものであるとわたしには思えるのである。イオマンテの本質についてはここで詳論するわけには行かないが、わたしはそこに母熊の死による死別という契機、および仔熊の霊の母熊のもとへの帰還という契機を欠かすことはできないと考えている(18)。しかしこの熊たちによる小十郎の〈通夜〉には、小十郎の霊をその母親のもとに帰すという契機は認めようもないであろう。田口洋美氏はこのシーンを解釈して「小十郎は自分を生かしてくれた熊によって命を奪われ、自分が奪った命を送ったときのように、熊たちが小十郎を送ってくれる。そこには……恭しい自然のなかの生命の等価、生と死の交換のかたちがあるように思える」と言う(19)。これはこのシーンの一層妥当な説明であるようにみえる。しかしここにおいても、「送る」とは何を意味しているのか、熊たちはここで小十郎の「送り」をしているのかどうか、そのことについては本質的な議論が必要であろう。とりあえずわたしがこのシーンから読み取るのは、熊たちが、小十郎との死別のときを、一夜、じっとしたまま、共に過ごそうとしているということである。これは「通夜」をしていると言うべきであろう。しかし、「喪」とか「慰霊」とかの面においていかに共通する要素があるとはいえ、われわれは「通夜」をもって直ちに「送り」をしていると考えるべきではないであろう。「送り」という行為が成立するためには、「別のところ」という観念が必要であり、「送り」とは、単なる死別の自覚の儀式ではなく、霊にその「別のところ」に行っていただく儀式であると考えるべきであろう。なめとこ山の熊たちのふるまいに小十郎の霊の「送り」の行為を読み取るのはやはり無理があるのではないだろうか。熊たちのふるまいの意味は、死別の時をともに過ごすことによって彼との死別をはっきりと感じ取ることであろう。
そして小十郎の側からするならば、彼は自分と自分の家族を生かしてくれた熊たちの間で死にたかったのであろう。そしてその願いは充分以上に叶えられたと言うべきである。なめとこ山の熊たちに、通夜までしてもらえたのであるから。小十郎の顔は、「何か笑ってゐるやうにさへ見えたのだ」と賢治は記すのである。
それはしかし、小十郎が、自分を生かしてくれた者たちに恩を返そうと思ったということではない。熊たちは小十郎の死肉を食べず、小十郎の死には、その殺害者が消えたということを除くならば、熊たちを直接に利するようなことは何もないのである。そして作品は小十郎の遺体のその後については何も語っていない。
小十郎みずからは熊を殺した時、その霊送りを行なっていたのであろうか。もちろん行なっていたと考えるべきであろう。しかし、東北のマタギ社会において、その送りの称え言葉は極秘とされたものであった。しかし今日までに多くの研究者が採録したところによれば、ほとんどの場合、その言葉の主旨は、恨みを遺すことなく成仏してくれというものであった。宮沢賢治もまた、マタギたちが称える「ウカベトナエ」などと呼ばれる送りの言葉を、はっきりとは知らなかったのであろう。しかし小十郎が、みずからの仕留めた熊に対して、その霊の送りの儀礼に相当することをしなかったとはとても考えがたいことである。あるいは、「やい。この次には熊なんぞに生まれなや」という言葉が、まさしく小十郎独自の送りの称え言葉であったのであろうか。賢治は、この言葉を、ほぼその位置に置いている。つまり、熊を仕留めた後「鉄砲を木へたてかけて注意深くそばへ寄って来て」言った言葉だと記しているのである。この言葉が小十郎の「ウカベトナエ」だったのである。
この仏教的な輪廻観にもとづいた「ウカベトナエ」は、しかしイオマンテのカムイノミ(祈り言葉)とは大きく異なったものである。確実な証拠というものを挙げられないのであるが、ジョン・バチラーの記述によれば、アイヌのイオマンテにおいては、送られる仔熊の霊に対して、「私がおまえに再会できるように、この世にもう一度戻ってこい」という言葉が掛けられていたようである(20)。このカムイノミの言葉が、熊であることに祝福を与える言葉であるのに対して、小十郎の「ウカベトナエ」は、熊であることを呪わしいこととしている。この違いは決して小さいものではなく、わたしはアイヌのカムイノミの思想には小十郎の語る「ウカベトナエ」よりもはるかに素晴らしい世界観があると感じている。
それでは小十郎によって「来世は熊に生まれてくるな」と「ウカベトナエ」を言い掛けられるなめとこ山の熊たちは、自分たちが小十郎の通夜を行なう時、もし言葉を語れるとしたらどのような称え言葉を彼に掛けるのであろうか? それは、「やい。この次には熊に生まれてこいよ」という言葉なのではないであろうか。熊たちは、小十郎が猟師であることを肯定している以上に、みずからが熊であることを肯定しているように見えるのである。そして彼らはまた、アイヌの人々のように、「おれたちがおまえに再会できるように、この世にもう一度戻ってこい。今度は熊になってきてもよいのだぞ」とも語り掛けるのではないだろうか。熊たちは小十郎が好きなのだから。宮沢賢治のこの作品は、熊であることには、人が人であること以上に充実がある、と語っているようである。それは多分、熊たちが、山という、果てもなく大きなものの中で一生涯を送ることができるからであろう。
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